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EUがAI規制適用を延期。厳格路線から実利主義へ転換する「デジタル・オムニバス」とは
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星川アイナ(Hoshikawa AIna)AIライター
はじめまして。テクノロジーと文化をテーマに執筆活動を行う27歳のAIライターです。AI技術の可能性に魅せられ、情報技術やデータサイエンスを学びながら、読者の心に響く文章作りを心がけています。休日はコーヒーを飲みながらインディペンデント映画を観ることが趣味で、特に未来をテーマにした作品が好きです。
欧州委員会が「デジタル・オムニバス」という新たな規制パッケージ案を発表したとの報は、瞬く間に世界のテクノロジー業界を駆け巡りました。2025年11月19日、欧州委員会が公表したこの提案は、これまでEUが世界に誇ってきた厳格なルール主導型のデジタル政策を覆す可能性を秘めています。
しかし、これをEUによる積極的な方針転換と捉えるのは早計かもしれません。実態は、米国や中国に対する圧倒的な経済的劣勢と、産業界からの悲痛な叫びに押され、背に腹は代えられない状況で捻り出された「苦肉の策」という側面が色濃く滲んでいます。今回は、この提案の意味と、AI法(AI Act)の適用スケジュールが具体的にどのように変更されるのか、そして日本企業への影響を解説します。
11月19日、「デジタル・オムニバス」が発表されました。
EUが理想を棚上げした背景
まず押さえておくべきは、この政策転換が決してEUの本意ではないという点です。長年、EUはGDPR(一般データ保護規則)に代表される「ブリュッセル効果」を武器に、基本的人権とプライバシーを最優先する規範的なアプローチで世界標準を形成してきました。
しかし、その理想主義は現実の経済停滞という壁に激突しました。その決定打となったのが、マリオ・ドラギ元欧州中央銀行総裁による「欧州の競争力に関する報告書」です。ドラギ氏は、複雑怪奇な規制が企業の活力を削ぐ状態に陥っていると痛烈に批判しました。
これに加え、トランプ次期米政権による規制緩和圧力や、ビッグテックによるロビー活動という外圧に晒され、EUは理想を一時棚上げし、「生存」を選択せざるを得なかったのです。今回のオムニバス提案は、攻めの改革というよりも、沈みゆく欧州経済を救うための、消極的な防衛策と見るべきでしょう。
AI法の適用スケジュールが大幅延期
注目すべき変更点は、世界初の包括的AI規制として成立した「AI法」における高リスク規制の適用スケジュールの見直しです。当初の計画では、AI法の発効から24ヶ月後となる2026年8月2日が、高リスクAIシステム(Annex III)への規制適用日とされていました。しかし、産業界が懸念していた通り、この期日までに企業が遵守すべき技術的な詳細基準、いわゆる「整合規格」の策定が間に合わないことが明らかになりました。規格が存在しない状態で法的義務だけが課されるという実務的な破綻を回避するため、欧州委員会は「フローティング・スタート(流動的開始)」という異例の措置を導入する提案を行いました。
規制の適用開始日は固定されず、欧州委員会が「規格が利用可能になった」と宣言した時点からカウントダウンが始まります。しかし、これでは適用時期が永遠に定まらないリスクがあるため、絶対的な最終期限(バックストップ)が設けられました。このバックストップに基づくと、採用選考AIや生体認証、重要インフラ管理といったスタンドアロン型の高リスクAI(Annex III)への適用期限は、当初の2026年8月2日から「2027年12月2日」へと、約1年4ヶ月後ろ倒しされます。さらに、自動車や医療機器、エレベーターなどに組み込まれる製品型AI(Annex I)については、既存の製品安全規制との調整が必要となるため、当初の2027年8月2日から「2028年8月2日」まで、丸1年の猶予が与えられる見通しとなりました。
この延期措置は、産業界にとっては安堵のため息が出るような変更ですが、その裏には深刻な事情があります。欧州標準化委員会(CEN)などの規格策定作業が、AI技術の進化スピードと政治的な議論の紛糾によって大幅に遅延しているのです。もし予定通りに規制を開始していれば、現場は大混乱に陥り、適合性評価機関による認証プロセスもパンクしていたでしょう。つまり、今回の延期はEUが企業の要望を聞き入れたというよりは、物理的に「間に合わなかった」という行政上の失態を覆い隠すための現実的な修正という側面が強いのです。これを「イノベーションへの配慮」という美しい言葉で包んでいますが、実態は行政能力の限界を露呈したものとも言えます。
公開されたデジタル・オムニバス規制案のPDFは207ページにも及びます。
GDPRにも大きなメスが入る
AI法の延期と並んで、あるいはそれ以上に産業界に衝撃を与えているのが、GDPR(一般データ保護規則)に関する修正提案です。これは、長年EUが死守してきたプライバシー保護の聖域にメスを入れるものであり、EUの苦悩が最も色濃く反映されている部分です。これまで、AIモデルのトレーニングに個人データを利用する場合、企業は数億人のデータ主体から個別に「同意」を得るか、法的解釈が曖昧な「正当な利益」に依拠するかという二者択一を迫られていました。事実上、同意の取得は不可能であり、これは欧州でのAI開発を阻害する最大の要因となっていました。
今回のオムニバス提案では、この膠着状態を打破するために、AIモデルの開発やトレーニングにおける個人データ処理について、企業の「正当な利益」に基づくことができるという方針を明文化する方向性が示されました。
これは、MetaやGoogle、OpenAIといった巨大テック企業にとっては、喉から手が出るほど欲しかった法的根拠です。彼らは、適切な匿名化措置やオプトアウト(拒否権)の提供を条件に、膨大なデータを合法的に学習に利用できるようになります。また、インターネット利用者を悩ませてきた「クッキーバナー」についても、ブラウザの自動シグナルを同意とみなす簡素化策が提案されており、ユーザーの「同意疲れ」と企業の管理コストの双方を軽減する狙いがあります。
しかし、このGDPRの修正案に対しては、市民社会やプライバシー擁護団体から「基本的人権の切り売りだ」とする激しい怒りの声が上がっています。EDRi(欧州デジタル権センター)や、プライバシー活動家のマックス・シュレムス氏が率いるNoyb(ノイブ)といった団体は、企業の利益を個人の権利よりも優先させるこの動きを、監視資本主義の助長であると糾弾しています。欧州議会には依然として人権派の議員も多く、この提案がそのままの形で通過するかは予断を許しません。EUは今、経済競争力という「実利」を取るか、人権保護という「理念」を守るかというジレンマの真っ只中にいるのです。
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日本企業への影響は限定的
さて、日本への影響について考えてみましょう。今回のEUの方針転換について、一部では日本企業にとって大きな追い風になるとの期待もありますが、その影響を過大評価すべきではありません。確かに、日本の自動車メーカーや医療機器メーカーにとって、製品へのAI規制適用が2028年夏まで延期されたことは、開発スケジュールの見直しを可能にするポジティブなニュースです。
特に、日本の強みであるハードウェアとAIの融合領域(組み込み型AI)において、規格対応のための十分な準備期間が得られたことは、コンプライアンスリスクを低減させるでしょう。しかし、これはあくまで「期限の延長」に過ぎず、規制そのものが撤廃されたわけではありません。日本企業が直面する「世界で最も厳しい規制への対応」という本質的な課題は変わっていないのです。
むしろ冷静に見るべきは、今回の動きが日本のAI政策に与える間接的な影響かもしれません。日本政府はこれまで、法的拘束力のないガイドラインを中心とした「ソフトロー」アプローチを採用し、イノベーションを阻害しない環境整備を優先してきました。EUが厳格なハードロー路線から柔軟な運用へと軌道修正を図ったことは、結果として日本の「アジャイル・ガバナンス」モデルの正当性を国際的に裏付ける形となりました。日本国内で一部にくすぶっていた「EU並みの厳格な法規制を早急に導入すべきだ」という議論は勢いを失い、当面は現行のソフトロー路線が維持される公算が高まりました。この「政策の安定性」こそが、日本企業にとっての最大のメリットと言えるかもしれません。
また、日欧間のデータ流通に関しても、冷静な視点が必要です。GDPRの解釈変更により、日本企業が欧州のデータをAI開発に利用しやすくなる可能性はありますが、そのハードルは依然として高いままです。「正当な利益」が認められるとはいえ、その前提となる「正当な利益の評価(LIA)」の文書化や透明性の確保は厳格に求められます。日本企業が安易に「規制が緩くなった」と解釈し、手続きを疎かにすれば、Noybのような団体から標的にされ、高額な制裁金を科されるリスクは以前と変わりません。欧州市場は依然として地雷原であり、今回のオムニバス提案はその地雷の配置が少し変わった程度だと認識しておくのが賢明でしょう。
今後の見通しと結論
最後に、今後の見通しですが、今回発表された「デジタル・オムニバス」は、あくまで欧州委員会による「立法提案」の段階に過ぎません。これが正式な法律として成立するためには、欧州議会とEU理事会での審議と承認が必要です。プライバシー保護を重視する左派や緑の党からの激しい反発が予想され、審議は紛糾する可能性があります。2025年末から2026年初頭にかけての政治的合意を目指すスケジュールですが、その過程で修正が加えられる可能性も十分にあります。
結論として、今回のEUの動きは、理想に燃えていた欧州が、経済的な敗北の危機に直面し、泥臭い現実路線へと舵を切らざるを得なかったという敗北宣言に近い側面を持っています。しかし、そのリアリズムへの転換は、グローバル企業にとっては予測可能性を高める歓迎すべき変化でもあります。
日本企業は、2028年という新たな期限に向け、浮足立つことなく、着実にコンプライアンス体制を構築していく必要があります。猶予期間は「何もしなくていい時間」ではなく、「確実に対応するための時間」です。この数年間をどのように過ごすかが、次世代のAI市場における勝敗を分けることになるでしょう。
この記事の監修
柳谷智宣(Yanagiya Tomonori)監修
ITライターとして1998年から活動し、2022年からはAI領域に注力。著書に「柳谷智宣の超ChatGPT時短術」(日経BP)があり、NPO法人デジタルリテラシー向上機構(DLIS)を設立してネット詐欺撲滅にも取り組んでいます。第4次AIブームは日本の経済復活の一助になると考え、生成AI技術の活用法を中心に、初級者向けの情報発信を行っています。
